2006年11月20日

退院まで

術後11日で退院。
入院生活は総じて快適だった。
だって義母の顔を毎日見なくてすむんだもの〜♪
 
【術後2日目】
リハビリを開始する。といっても、専門の人がいるわけでもなく、看護師さんが指導してくれるものだった。
患側の腕を動かすと、肘がビリビリ痛む。
先生に聞くと、肘につながる神経がドレーンに触っているのではないかとの事だった。
食欲もあり、術後に泣きながら訴えていた、念願のマックを食べる事ができた。
シャワーもお腹から下に限り許可が出る。
 
午後になって、病棟から看護学生の実習を受け入れてくれないかとの申し出があり、了承する。
彼女には、着替えやリハビリ、シャンプー、食事の準備まで、入院中は本当にお世話になった。
 
【術後3日以降】
病棟には個室が2部屋しかなく、何かあったら移動するという前提での個室使用だったので、重篤な患者さんが入院したため、6人部屋に移動する。
 
私は通常、うつぶせか横向きで寝るのだけど、患部とドレーンのせいで仰向けでしか寝られなかった。
その為、腰が痛くなってしまってちょっと苦痛だった。
クッションに膝を乗せ、ベッドを少し起こして寝ると少しはマシに感じた。
 
患部の痛みは当時のメモを見ると、胸よりも肩から腕にかけての重だるい感じが不快だったようだ。
”鉛が肩に乗っているようで、腕がちぎれそう”と書いてある。
 
ドレーンを抜いたのは、メモがないが確か術後5日目だったと思う。
抜くときは、そのものの痛みより肘の痛みがすごくて、泣いてしまったのを憶えている。
 
あと、入院中に一番腹が立った事がある。
他の方の体験談でも読んだことがあるが、外科部長の回診の時、私の腕を持ったと思ったらいきなりグイッとあげられた。
痛くて思わず叫んでしまったら、その外科部長は
「大げさだなぁー!このくらいしないと腕が上がらなくなって困るのはあなただよ!」
みたいな事を言って去っていった。
確かにそうかもしれないが、そのやり方はないんじゃないかと後で主治医に文句を言ったけど、本当に嫌だったな。
その後、しばらく動悸とめまいで起きていられなかったくらいだ。
 
退院は、術後8日目の金曜日か、土日を挟んで月曜日にするかを選べた。
支払いのことは気になるけれど、私は月曜日に退院することにした。
 
週末は昼間の外出許可をもらい、土曜日は夫とドライブへ、日曜日は遠方から従姉妹家族がお見舞いに来てくれたので、ランチに出掛け、中ジョッキで乾杯!
約2週間ぶりのビールは旨かった!!
 
その日の消燈後、突然気持ちが不安定になってしまった。
退院したら、また義母と顔をあわせる毎日が来るのかと思うと、涙が止まらない。
入院中、痛み以外で泣いたことはなかったし、手術の前日でさえ普通に眠ることができたのに・・・。
どうにもならなくなり、睡眠導入剤をお願いした。
看護師さんが別室に案内してくれて、
「あなた、今まであまりにも普通の様子だったから逆に心配だったの。よく頑張ったわね。先が不安になると思うけれど、まずは治療をしっかり受けて・・・」
みたいな事を言ってくれた。
私は姑が原因だとはいえず、先行きの不安という事にして、泣きながらしばらく背中をさすってもらった。
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2006年11月06日

手術翌日

「お、おなかが痛〜い!!!」
手術日の夜中、というか翌日の明け方というべきだろうか、
突然の激痛に襲われた!
 
手術後は個室に移ったので、その日は夫が泊まってくれた。
夜には意識がはっきりしていたのではないかと思うのだけど、
おなかが痛くなるまでの記憶はない。
私が覚えているのは、この事からだ。
 
夫がナースコールを押し、看護師さんが来てくれて
処置してくれた。
原因は・・・そう!手術前日の夜に飲んだ下剤だ。
”ラキソベロン 10ml”は、手術前に結果を出さずに、
術後で動けないその時期に頑張りだした。
いや、ラキソベロンが悪いのではない。
私の怠慢な腸がラキソベロンによって、やっと重い腰を
挙げたのだ。
腸の持ち主である私が、怠慢な性格なのだから仕方がない。
 
その後も定期的におなかが痛くなるのだけれども、
トイレには立てないし、一応羞恥心もある。
でも、もうダメだ!と思った矢先、夫が先ほどの看護師さんの
見様見真似で処置してくれた。
 
結婚半年で、夫に下の世話をしてもらうとは思ってもみなかった。
その時はとても情けなく、なんとも言いようがない気持ちに
なったけれど、その出来事をきっかけに、私と夫の関係が
徐々に変わり、現在に至る。
人生、何が幸いするかわからない。
 
手術翌日、午前の主治医の診察でカテーテルを外してもらった。
夫と交代した実母に付き添われ、フラフラしながらトイレに
何度か通い、昼頃にはすっきりした。
(内容に気分が悪くなった方がいましたら申し訳ありません)
 
午後になり、肺の状態とドレーンがしっかり入っているかの
確認のため、レントゲン室に向かう。
その頃には、すでに一人で歩く事ができた。
 
 
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2006年11月05日

手術当日

手術日を迎えた。
 
以下、病院からの指示メモと夫によるメモから。
 
前日21時〜 : 飲食禁止
当日 起床後 : ペディキュアをとる
   11時半 : 準備麻酔の薬を飲む
         : 下着を外し、手術衣に着替える 
 
   13時   : 手術室へ
           (ドクター:3人、看護師さん:2人)
   16時半 : 手術終了。個室へ移動
 
以上のような流れだったようだ。
この日の事は、ほとんど記憶にない。
午後からは手術の麻酔で記憶にないのが当然だけど。
 
マニキュアは入院当日に除去したが足は残していた。 
準備麻酔の薬は、たしか睡眠導入剤だったと思う。
手術室へはストレッチャーで運ばれた。
入室したら肌寒かった記憶がある。
 
手術中、検査にまわす前に、切除した部分を
夫と実両親と義両親が見たそうだ。
私も見たかったー!
今なら携帯で撮影してもらえたかもしれないけれど、
当時はカメラ付携帯はなかった気がする。
できれば手術もビデオ撮りして見たかったな。
自分の身に起こっている事が自分で確認できないのは
なんだか変な気がする・・・。
(って、そんなのを見たい私が変?)
 
術中検査の結果、断面陰性だった為
当初の予定通り、胸は温存する事になった。
 
手術室を出てきた私は、目が充血して泣いていたそうだ。
うなされてブツブツ言っていたらしく、その内容は
「ハンバーガーが食べたいよ」
「フライドポテトが食べたいよ」
「ラーメンが、焼肉が、コーラが・・・(以下略)」
全くお恥ずかしい限りで・・・。
目覚めるまで待機していた看護師さん達も
笑っていただろうなぁー。
身体の事に関しては
「重いよー」
「暑いよー」
などと言っていたらしい。
 
術後、個室に移ったのは夫の計らいだった。
通常はナースセンター隣の看護室らしい。
3日後に大部屋に移る事になるのだが、
その部屋で一緒だった方(同病ではない)は
術後に”お金や支払い”の事を言ってうなされていたそうだ。
「どっちも恥ずかしいねぇ!」と言って
2人で笑った。
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2006年10月27日

手術前日

手術前日に、当時の主治医S先生から説明があった。
室内には、S先生と看護士さん、私と夫と私の両親、そしてなぜか夫の両親。
 
入院中に行った検査結果を交え、手術方法の提案をされる。
 
*以下は乳腺専門ではない主治医からの2000年当時の提案です

  • 全摘・・・左胸全切除&リンパ切除
  • 温存(断面陰性)・・・上部腕側 1/4扇状切除&リンパ切除

                 術後放射線 25回

  • 温存(断面陽性)・・・術中に全切除に変更するか否か。

                 温存にこだわるならば、放射線と抗がん剤が
                 残ったガン細胞に利くかもしれない。
                 ただし、経過によって再手術を行う事もある。
 
”断面陰性の温存”と”全摘”の予後を比較しても、
治療成績はほとんど変わらない、と説明を受けたうえで、私は全摘出を申し出た。
仮に、温存で術後再発したと考えた時、
”全摘していたら違う結果になったかな?”と考えそうで嫌だった事と、
放射線にかかる時間(仕事復帰が遅れる?)と金銭的な問題があり、
入院して2〜3日頃から全摘に気持ちを固めつつあったのだ。
 
しかし夫と夫の両親が、
”陽性・陰性にかかわらず、胸は残してほしい”とS先生に訴え、
「ないよりあるほうがいいに決まっている・・・」
「駄目ならまた手術すればいい・・・」等の事を言い出し、私を説得しようとする。
当人の気持ちを無視し、自分達の気持ちを押し付けようとする態度に、
心底から腹が立ち、うんざりした。
それまでの言動から察するに、”片胸”の嫁が○○家の嫁なんて・・・という
感じがありありなのだ。
私は、「自分の身体の事なんだから、最終的には私が決める!」と怒り、
しばらく口論が続いたが、
S先生と私の両親の助言で

  1. 温存する方向で、1/4を切除。
  2. 切除部を術中検査する。
  3. 陰性ならそのまま閉じる。陽性なら全切除にその場で変更する。

という事で納得し、手術同意書にサインをした。
しかし、夫側の私を無視したやり方に不安と不満を覚え、イライラしていた。
 
次は麻酔科での診察・説明を夫と2人で受ける。
こちらはスムーズに終了し、麻酔同意書にサインをする。
 
その後、早めの入浴をし、浴室の鏡に胸を映してみた。
小さいながらも、乳ガン告知まではそれなりに気をつかっていたが、
鏡に映っていたのは、今までのニュアンスの”胸”と違う、ただの”胸”。
身体にくっついている”モノ”としか思えなくなっていた。
 
夕方からは、友人・知人が引っ切り無しにお見舞いに訪れてくれた。
昼間のイライラした気持ちも吹っ飛ぶ。
 
就寝前になり、下剤を飲む。
乳房の手術では、下剤・浣腸はしなくていいらしいのだけれど、
私はひどい便秘だったので、看護士さんが「術後すぐは大変だから」と
気を利かせてくれたのだけど、
それが術後にある出来事を引き起こす事になったのでした。
念の為にと、睡眠導入剤も出してくれたのだが、それは飲まずに就寝。
 
 

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2006年10月23日

入院(手術前)

告知から2日後、検査を受けた市内の総合病院に予定通り入院する。
入院説明を受け、病室へ。
 
午後は外出許可をもらって、職場へ報告と手持ちの仕事の引継ぎに向かう。
当時私の立場は派遣社員で、前日に派遣先のチーフに報告した際に
「契約破棄にはならないと思う」と言われたとはいえ、クビになるんじゃないかとヒヤヒヤしていた。
そして、雇用元の会社では、派遣先の職場の指示に従うように言われていた。
(ホントは雇用元から派遣先に連絡するのがスジではないかと思うのだけれど・・・)
 
部長・課長・チーフと面談し、”月末ごとに状態を報告し、休業は半年を目安に考える”という派遣社員としては寛大な結果をもらった。

課員約30名のほぼ半数が、派遣や取引先からの出向だったという状態もあり 、社員との差はほとんどない職場だったからだろう。
 
でも安心はできない。上司が異動になり新しい上司がきたらそれは簡単に覆されるかもしれない。
当時の私にとっては家にいるのが辛く、職場がオアシスだった為、早く職場復帰するのを目標にした。
 
手術は一週間後に決まり、それまではCT、MRIなどの検査があるくらいで基本的には暇だ。
図書館で借りてきた乳癌に関する本や、結婚してからなかなか読めなかった小説等を読み、入れ替わり立ち代わり訪れてくれる友人、職場の人・親戚達とたわいもない雑談をして過ごす。
夫も朝晩来てくれたし、実家の母親も毎日片道30分ほどの時間をかけて訪れてくれ、結果的には暇と感じることはなかった。
 
私は、幼少から10代中盤まで気管支喘息に苦しみ、学校も休みがちだったが、入院・手術は初めての事だった。 
それでも当時はなぜか不安はなかった・・・と思う。
病室にいるほうが家より気が楽だった事、上記のように周囲の人達がお見舞いに来てくれた事、早く職場に復帰するという目標があったから。
 
入院中、乳癌に関する本を読んで、病期にもよるが”癌=必ずしも死につながる”ということではないと知った。
”セカンドオピニオン”という言葉も、”乳腺外科”という専門を設けている病院があるという事も、”医者のいう通り”ではなく”自分の病気を知って考え、納得した治療を受ける”という事も知った。
 
私が検査・入院をした病院は、市内では唯一の総合病院だが、実はあまり評判がよくなかった。
田舎だからか、乳腺外科もない。
 
手術前にお見舞いに訪れてくれた人の中で、身内を含め何人かが県外や県内の自宅から離れた、大きな病院に転院を薦めてくれた。
しかし、私は、また一から診察や検査に費やす時間が嫌だったし、早く手術をして仕事に復帰したかった。
そうなれば通院する際、遠い病院だと職場にも迷惑がかかる。
  
そして、初診で即検査をオーダーし、その日に告知という迅速な対応をしてくれた、当時の主治医S先生に対し、すでに信頼感を持ちつついたのだ。
まあ、病床があいているというのは、評判がよくない証拠なのかもしれないけれど(笑)。
 
病院全体のシステムや評判等も大事だが、一番大事なのは主治医が信じられそうかどうか、だと思ったので、私の中で転院やセカンドオピニオンをとるという選択はなかった。
 
手術前日に手術説明があった。それ以降はまた次回に・・・。
 
 
 

posted by かかん at 02:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 初発のとき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月20日

癌が発覚

2000年 夏

 「結果は悪性、いわゆる乳癌です。ベッドが空いているので明日入院できますか?」と医者から告げられた。

結婚と同時に夫の両親と同居して半年。
世間一般の例に洩れず、当時の私は大変なストレスを抱えていた。

私に嫌味・いやがらせを行い、蔑むような目で見る姑。
それに対し、なんのフォローもない舅。
夫といえば自らの理想とする結婚・同居生活を私に押し付け、文句ばかり。
これでも夫とは長年付き合っていたのだが、私は”1年我慢して改善の余地がなければ離婚しよう・・・”と思って生活していた。

夫の手前上、食事は食べるがその後吐いてしまう。
姑の顔を見る度に胃が痛くなり吐く、の繰り返しで見る見る痩せ、そんな状況を知っている実家の母は、私とこっそり会うたびに私の身体をさすりながら良く泣いていた。

当時の私は、車で30分弱の実家に気軽に行くのも許されず、友人達との外出もなかなか都合が合わずで、唯一の息抜きの場所は会社だった。
残業は多く、デスクワークだが仕事はキツイ。
でも”本来の自分”を開放できる場所は職場しかなかったのだ。

そんな中、職場の健康診断で”甲状腺が腫れている”との指摘を受け、市内の総合病院に検査に向かった。
その少し前に、友人Tちゃんが胸のしこりの検査を受けて良性だったという話を聞いたので、結婚してから半年で急に大きくなった胸のしこりをついでに見てもらおうと思いついた。
私は、10代後半から病院にお世話になった事はほとんどない。
この機会を逃したら、次はいつ病院に行く気になるかわからない。

私の父方・母方には、癌で無くなった人はゼロ。
だから、しこりが悪性のものとは全く思っていなかった。
むしろ甲状腺は身内が手術をしているので、そちらの方が心配だった。
私にとって、胸の検査はほんのついでだったのだ。

診察での触診後、主治医の緊急指示で採血・レントゲン・マンモグラフィー・エコー。
エコーは技師1人だったのが途中で3人に増え、かなりの時間がかかった。
技師は私に直接話しはしないが、この時点で良性ではないだろうと予想がついた。
再度診察し、細胞針。
結果が出たら電話するので夕方以降は家にいるようにと言われる。
その足で図書館に向かい、数冊の乳癌についての本を借りて実家に向かった。
現状を報告。母は泣き崩れた。私もそこで初めて泣いた。

家に帰宅し、夕方5時すぎに電話で冒頭の内容を告げられる。

検査中の様子で予測していたけれど、やはりショックだった。
しかし、入院という言葉を聞いて若干の嬉しさも感じていた。
この息苦しい家から入院中は逃れられるのだ!

ショックと嬉しさが入り混じった、奇妙な感情で主治医にお礼を伝え、入院を明後日にしてもらうよう頼む。
翌日は数ヶ月ぶりに友人と外出の約束をしていたのだ。
当時の私は”ガン=死”という間違った認識をしていた。
死ぬ前に、大好きな友人と楽しい時間を過ごしたいと思った。

翌日、友人と買い物と映画を楽しんで帰宅した後、入院準備をし、床につく。
夫と少し話しをして2人で泣いた。

posted by かかん at 03:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 初発のとき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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